鎌倉 万福寺で義経を思う
万福寺1

 マイケルがアメリカの終焉のように鎮痛剤代わりの麻酔でこの世を去って行き、イランでは改革派による民主化をもとめるデモとは関係なく歩いていた女性が射殺され、トラブル続きの原発による影響はプルサーマル計画を断念するに十分な要因となっているようで政府の「原子力大綱」の根本的な見直しを発表したらしく騒いでいるものの、僕の体調は急降下、おまけに睡眠不足でまったくパソコンに触ろうと言う気さえも起きない気だるさが漂っていたのがおとといあたりまででした。

 みなさんいかがお過ごしですか?

 いやぁ、ウチの子が熱を出して看病しているうちにパートナーが体調をこじらせ、そうこうするうちに自分の体調までこじらせてしまい、休息をとろうとしばしブログを休んでいました。

 おかげで子どもともども元気になりました!

 さて何だかアジサイの季節も終わりそうなのですが江ノ島、鎌倉の旅の続きからはじめようと思います。

 僕らは水族館でまばゆいばかりのふわふわと遊覧しているようなクラゲをゆっくりと眺めて過ごした後、源平合戦で勝利した義経が、頼朝に鎌倉入りを禁じられて逗留していたという万福寺に立ち寄りました。

 腰越駅を降りると江ノ電が路面を走る場所なので、とても懐かしい感じがする駅です。
 駅から歩くこと3分ほどで小高い丘の上に万福寺はあります。
 万福寺から下を見下ろすと石段越しにアジサイがあってそこを江ノ電が通っていて何だかいいシチュエーションです。

万福寺2


 下から初々しい感じの手をつないだカップルがアジサイを見ながらゆっくり歩いてきますが、人も境内にいないのでロマンチックな気分を堪能しています。

 ここで義経は、頼朝に自分が何故このような仕打ちをうけなければならないのかを滔々と書いた有名な腰越状を作成したといわれています。
 その腰越状の実物が展示されていたらしいのですが、僕らはその存在さえも気がつかず、丘から眺めた腰越周辺の景色をボーっと眺めていました。
 何だかクラゲの世界を眺めているうちに、そんな世俗のことは良くなってしまったのか?不思議な時間をここでも過ごします。

 ですが、万福寺に来たかったのは義経と頼朝の決別の場所という兄弟の別れの舞台だったからです。
 僕は、義経って例えは悪いのですが、岸和田のだんじり祭りを連想してしまうんですよね。彗星のように現れて平氏を滅ぼし、散っていくと言う意味では、勢いのよい神輿が塀をぶっ壊して去っていく祭りの後のような感じです。
 でも、あの塀をぶっ壊して去っていく神輿は一年に一回だけです。この義経のような功績を残した人物も歴史上でそういないでしょうから、ちょっと例えが違うんでしょうが・・・。
 
 義経と頼朝の頃のことについて書いてみたので読みたい方は「追記」をクリックしてください。

 だけど今だったら義経と頼朝の関係だったら、義経あたりが欝になって「機能不全家族」として分析されたりするんでしょうね。

 お父さんがアイツん家(平家)で殺されたんだけど、腹違いの兄貴もどこにいるか分からない。やっと見つかった兄貴、お兄さんが拙者を認めてくれるならお兄さんと同じ気持ちで、アイツん家で暴れたる。

 なんて言いながら醜い争いが行われるものの、お兄さんは相変わらず弟のことを認めない。認めないどころか、殺すという。どうしよう、なんて。

江ノ島港


 まぁ、そんなことを考えているうちに、いい時間になってきたので万福寺を後にして、目の前の小動神社で江ノ島の見える高台に登って観ていると、トビが頭上をこれまたゆったり飛んでいきました。

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Posted by マサキ
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[未分類
新江ノ島水族館へ、その前に・・・
クラゲ

 結婚2年を記念して、パートナーともこれからも末長く宜しくという感謝の気持ちをこめて江ノ島、それから紫陽花が咲いているだろう鎌倉の寺めぐりの旅を企画しました。
 川越、高麗川の巾着棚も捨てがたかったのですが、いざ鎌倉です!

 一日目は、江ノ島の生シラス丼を食べて水族館へ。

 竜宮城のような小田急線の片瀬江の島駅は、日本の駅百選に選ばれているとか。
 その片瀬江の島駅を出て、目指すは江ノ島です。

 江ノ島って何だかミーハーな感じがして初めてなんですよね。

 何といってもこの時期は、シラス解禁です!

 普段、魚屋で売っているのは釜揚げシラスですが、ここ江ノ島では鮮度が命の生シラスが丼で喰らえる!

 となれば、さっそく生シラス丼を注文です。
 パートナーは、子どもも食べるため、食当たりしたら大変なので釜揚げシラス丼を注文しました。
 
 はじめての生シラス。
 ひと口ほおばってみる。

 !!!

 今にもシラスがとろけそうな触感と濃厚な味が口腔に広がる。
 (食べ物の表現は、あまりにも貧弱で何かこんな表現しかできないのが残念ですが)

 食堂は二階なのですが目の前には、江の島から見える白いヨットたちが海と戯れているように見えます。

 その景色を前に生シラス丼を堪能できるって何だかさっきの江ノ島駅を見たせいか、竜宮城で夢の食事を食べているような幸せ感です。

 シラス丼にチョロッと醤油を掛けて食べてみましたが、これまた美味しいの何の。

 海の幸に感謝です。

 江ノ島には、生シラス丼だけを目的に来たのではもちろんありません(笑)

 お次は、新江ノ島水族館に向かいます。

 水族館の中に入ると、お〜いるいる。
 大きな水槽の中に、イワシやエイやタイなどが悠々と泳いでいます。
 この泳いでいる様を見ると海の多様性というか生態系の不思議を感じます。

 悠々と泳いでいるエイに付きまとっているのはコバンザメでしょうか?
 イワシは群れをなして、カンパチなどの大型の魚は単独で泳いでいます。
 フグはプカプカ波に揺られるように静かに泳いでいます。
 ウツボは陰湿そうに岩に張り付いて、ジーッと獲物を狙っているように見えます。

 この魚たちがそれぞれの世界と別の世界をもって海というものを形作っている様を見ていると、まるで人間社会をみているような気分です。

 わが愛娘も、その大きな水槽の魚たちをジッと不思議そうに見ていて、時折何か物珍しいのか声を発します。

 それから、ここの水族館で僕がいいなぁと思ったのは、色々な種類のクラゲたちのコーナーがあることです。

 意外にも、このクラゲブースは、僕にとっては一番ゆっくりと時間を使ったのではないかと思います。

 クラゲの漢字の名称も海月・水母・久羅下と様々です。
 海にちりばめられた星がヒトデだとすると、海の月がクラゲだなんて童話の物語になりそう。

 クラゲは、人類が生まれるよりも前10億年前から海をただよっているのだそうです。
 それからサンゴやイソギンチャクの仲間だとか。

 クラゲが受精すると、プラヌラという小さな子どもが誕生して、岩などにプカプカと浮かびながらたどりついてそこでしがみ付いて、獲物(プランクトン)を触手によって捕獲して成長していくのだといいます。

 クラゲがフワフワと生息しているのに必要なエネルギーは、外の環境を有効に使って生き延びているのです。
 何というか自然体というか、あるがままの姿で僕らに教えてくれているような気がします。

 一日中無理してあくせく働くなよ。
 もうちょっとゆっくり、なるがままにプカプカしているのもいいんじゃないかい。

 愛娘も、プカプカ浮かぶクラゲを飽きずに僕の隣で不思議な眼差しで眺めていました。

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Posted by マサキ
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[ぶらぶら
「親切」と匂い
 今日の電車の中で、嫌な気分になったのです。
 それは、辺見庸さんの『ゆで卵』を読んでいておもむろに他人に声が掛って始まったのです。

 「あなたぁ、席を譲りなさいよぉ」

 声がする方を見るとまるで「ゆで卵」のような中年の方が
 高校生をたしなめるように盲目の方に、席を譲れと言っているのです。

 その場で高校生が「しょうがない」という感じで席を譲ると
 盲目の方に向かって「ねぇ、あなた席を譲ってもらいたかったんですよね」

 ちょうど、となりの方の汗の匂いとともに、その言葉に「イラッ」と感が出てきました。

 おせっかいやきの彼が去ったあとに、
 盲目の方の介助に当たっていた女性が、さっきの方の「親切」を迷惑そうに
 「私たちはいいから、あなたたちは座って頂戴」 とそくして高校生たちはまた元の席へ。

 車窓からは、飛鳥山公園のあじさいが美しく咲いているようです。
 今度、飛鳥山公園にあじさいを見にこようと思ったらまた隣の方の汗の匂いがその風景のとともにあるのでした。

 NTV特集で見た『しのびよる破局』のあの辺見庸さんの作品『ゆで卵』で、
 全く違っていること、そしてゆで卵の匂いがジョギング中の白人の脇の匂いやベトナムの魚醤ニュクマム、女性のあそこの匂い、地下鉄サリン事件の匂いとそのエピソードとして記憶されていく主人公の思いとともに電車に揺られてしばし・・・。

 あっ!、さっき高校生に席を譲れとおせっかいを焼いた方が、
 はたまたまたもや高校生に忠告をしているではないですか!

 車両をわざわざ戻ってきて、「親切」のまたもや説教を垂れようとは!!

 「あなた、何やってるの。さっき譲った盲目の方の席を奪ったのね」

 困惑顔の高校生が沈黙のままバツの悪そうに座っているのを見かねてしまいました。

 僕は、見るに見かねたので
 「あなたねぇ、そんな忠告は余計な御世話っていうんだよ!彼女たち(盲目の方と介助の方)は、別にいいって席を譲ってるんだよっ!!」

 僕はついつい驚いた拍子にそんなことを口走ったのです。
 余計な親切心が、さらにまた余計な親切心を呼ぶ。

 でも、そのことを言ったことで、高校生たちは「ありがとうございました」とわざわざ僕の肩を叩いて言ってくれたのでした。
 で、隣の方の汗の匂いが振り向きざまにカウンターを喰らったのでした。

 何だか僕は、このような「親切」で感謝されたことがないので恥ずかしい。
 これもきっと前の説教をしながら他人に席を譲れといった「親切」とどこか同じなんだろうなぁと思いながらも、妙にうれしかった。

 『しのびよる破局』を見たあとの落胆、
 そして、『ゆで卵』を読んでいる現在(いま)の奇妙なシンパシーを
 辺見庸という方から感じた瞬間、まさに「親切」をしている自分が恥ずかしく思えたのです。

 僕は奇妙にも電車の中、この瞬間に匂いというものがこれ程「親切」というものとリンクして不思議な気分になるのでした。
 それにしても匂いというものは、記憶の中の重要な要素なのですねぇ。

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[まったりとした時間
宇宙とその自然について
あじさい

 あじさいには冷めた感性がにあう。
 広々とした銀河系や太陽系が凝縮された世界がそこにはある。

 それは、ただ、宇宙を自然という形で見つめる感性が
 人々の中で育つだけなのか、
 ただあじさいを凝視しているだけのか、
 それともそこから何者かがはじまろうとするものなのか?

 おお、森で宇宙とであうなんて
 森はそんな感性を育ててくれる 

 あじさいを眺めているだけのひと時なんて、
 そんな時間と宇宙(そら)を連想しながら
 過ごせるのをしあわせというのだろう。

 そんな風に眺めるられるのなら
 磨かれた時間がそこからつくられる

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[まったりとした時間
Infinity ∞ 身体のゆくえ 
 石内

言葉はウソをつく。

 そう思わせたのは、かれこれ十年前になるだろうか?
 石内 都さんの女性のすっぴんな表情を撮影した写真展を見て身震いしてからだ。

 彼女の被写体からは、飾ることのない身体がそこにあるのだ。

 ありのままの身体、それも傷や、皺、指先や表情が、ウソで塗り固められたような言葉を粉々に打ち砕く。
 何も語らなくても、身体その部分が何かを物語り、消えていく。
 それは、身体や物たちが陰ひなたに「消えていく」というよりも、語られない消尽しつくしたものたちが語りかける何か、なのだ。

 「1906 to the skin」は、一人の初老の方が皺とシミだらけになった身体を恥ずかしげに撮影されている。彼は、舞踏家の大野一雄さんだったのです。
 皺だらけになった手や足などが一旦衣装を着て動きだすと、見る者を魅了する。
 そのギャップの中に、語られないものが自然と俊立しているような気がした。

 何の変哲もない先がすり減った真っ赤な、真っ青なエナメル靴を正面から撮る。
 それは、今は亡き石内 都さん、本人の母親の亡骸だった。

 亡骸は、何も語ろうとしない。
 しかし、石内さんは、亡骸本来の真実である母親が履いていた「靴」そのものを何ら歪めることなく撮り、表出する。
 それは、僕らがいくら言葉を費やして表出しようとしてもとらえきることのない真実の姿を、そこにとどめる。

 最近の石内さんは、「ひろしま」をテーマとしてえらんだそうだ。
 その展示物からは、原爆とか、「被ばくした唯一の日本=ヒロシマ」ではなく、日常の遺品たち、風に揺れるようにヒラヒラと舞っているように見えるワンピースや熱で癒着した小瓶がある。
 人間の生活とともにこれらの遺品があったという、ありのままの姿で「ひろしま」を伝える。

 僕は、先日実家に帰った際に、群馬の森の近代美術館で石内都の写真展をやっていると聞きつけて、両親、そしてパートナー、そして子どもと一緒に行ってきました。
 何だか変な構成で行ったものの、みんな写真を見て何者かに取りつかれたように終始無言。

 静寂の中に赤ちゃんの「あー あー」っていう声が館内に反響しているだけでした。

 石内都さんの出身地・群馬県での最初の個展とも言える「Infinity ∞ 身体のゆくえ」は『群馬の森 県立近代美術館』で〜6月14日まで開催されています。 
 関連して同時に群馬県桐生市の「財団法人 大川美術館」にて「石内都 上州の風にのって1976/2008」も開催されています。

 関連するURLサイト
 石内都作品集/INNOCENCE(イノセンス)
 石内都:mother’s

 石内都インタビュー 時間を見たいから写真を撮る
 石内都 ヴェネチアビエンナーレ凱旋インタビュー

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[お気に入り
もっとおいしく!〜まずいそばをたぐって考える〜
 昨日、チェーン店の「富士そば」に深夜うかがって食べたそば、まずかったぁ!

 食券と100円を渡して「天ぷら付けて」と注文。

 眠そうな顔したオッサンに注文したのですが、
 出来合いのそばをチョッチョッと湯通しして、
 「コロッケですよね」ときた。

 「いえ、天ぷらです」

 厨房の作業風景を見ていると、
 いつ湯に通したのか判らないような
 伸びきったそばをおもむろに取り出します。

 そばを湯煎して、ねぎと鶏肉を乗せた上から
 辛いラー油状の液体を尋常じゃないくらいドバドバかけている。
 
 「ぶっ!ショッパイ!!」

 そばをたぐってズルッとやると、
 フヤけきったばが何の抵抗もなく
 ブシャブシゃと口の中に広がる!

 そして油をギットリ吸ったヘタリ切った天ぷらが、
 口の中でフニャーと噛み切れない!!

 更に極めつけは、あのドバドバかけたラー油状の液体で
 何だかもう「どうにでも良くなれ」的ハイテンションです。

 何とか食べたのですが、麺で、天ぷらで、汁で、三つ揃った「まずさのMVP大賞」でもオッサンに渡してやりたい衝動をおさえたのでした。

 ありゃ一体なんなんですかねぇ。

 美味しいそばを作ろうという心意気を感じない!
 客に美味しいものを食べてもらおうという意欲のかけらもない!!

 「そばを食べてルチンの成分で健康に」
 ではなくって
 「そばを食べて、しょっぱく、アブラギッシュで成人病に!」
 って客に言っているようなもんですよ。

 昨日より今日、今日より明日を目指してとか言わないから、
 せめて普通にそば食べさせてください。

 お願いします!!

 富士そばの悪口ばかり言ってもしょうがないのですが、
 働く現場で「どうでもいい」感を漂わせながら、
 疲れきっている労働者が今やたらとモノつくってる感じがします。

 特に外食産業は安売りしたはけ口が、
 即人間の口に入るという仕組みですから恐ろしいですよね。

 「安さ」と「スピード」という合言葉が食事の質をどんどん落としていく。
 肉だって、野菜だって「安さ」、「スピード」が、「安さ」や「スピード」では買えないモノを淘汰していく。
 食器だって、汚れや洗剤の付いたまま洗っても他人が食べるんだから関係ない。
 食事だって他人が食べるんだから、多少味濃くっても、不味くても関係ない。

 所詮他人ですから。

 殺虫剤入り餃子やら産地偽装だって、
 他人が食べるもので騙されて食べる方が悪いとなる。

 作り手は安い給料で、ラインに乗った商品を昼夜関係なく加工し続けるのだから、この食品がどこに行って誰が食べるのかなんて関係ない。

 「安心」とか「安全」という言葉が、働く現場では空回りしていく・・・。

 生産する人間が安い給料でロボットのように作業に組み込まれていれば、やがては消費する人間の口に入るものさえも危険と隣り合わせ、命さえも脅かすような事態になっていないか、もう一度考え直して見ないことには。

 僕は、企業が「安全」とか「安心」を第一に考えるなら、不必要にコストを減らすのではなくて、品質をチェックしている現場で働く人たちの働き方がまず「安全」で「安心」して協力しながら働ける環境こそが重要だと思うのです。

 ミツバチが人間の利益のために働かせすぎでストレスが高じて大量死に至っているのではないかという指摘がありますが、残業が嵩じた鬱や果ては過労死、生活苦を理由にした自殺が激増しているカーブと消費する側の「安全」や「安心」が脅かされる背景とは根っこは同じだと思います。

 それは、人間らしく働いているかどうかです。

 その意味で、他人に関心をもっと持つような職場環境と低賃金や残業出してナンボの生活から脱却した企業に「もの言う労働者」が育つことが、「安全」や「安心」につながる一歩だと思います。
 実は、企業にもの言わぬはけ口が、「安全」や「安心」を脅かしている張本人かもしれません。

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[思考する時間
ヤブガラシの天ぷら、美味です
ヤブガラシ

 「天ぷら食べたくない?」

 「そうかぁ。いま野草で天ぷらできるものといえば、何だろうね。」

 「ヤブガラシがおいしいかも。新芽を取って天ぷらにしたらエグミが残らないかもよ」

 「それを摘んでこようか?」

 とパートナーとの夕食前の会話です。
 近所の空き地にヤブガラシを摘みにレッツゴー。
 最近、こんな会話で食事の談義をして、スーパーでなくて空地とか森にしょっちゅう行くんですよね。

 道路脇で犬のオシッコがかかかってしまうような場所にもある雑草でおいしくて、繁殖力のあるものといえば、ヤブガラシにドクダミでしょう。

 ヤブガラシは、その名の通りヤブをも枯らしてしまうというほどの繁殖力をもつという由来からきた名前です。
 今回は、その中のヤブガラシとシロザ、それからフキを取ってきました。

 ヤブガラシの天ぷらは、サクッと感があってエグミが油で取れていておいしい!のです。

 それから、シロザはゴマ和え。
 シロザと一緒にアカザって野草もありますが、種類はまったく同じ。
 新芽の先が白っぽくなっているのがシロザ。赤はアカザです。


 フキはしょうゆとかつお節でサッと炒めます。
 ご飯にのせて食べてみると、これは何杯でもご飯が進みますなぁ。
 
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Posted by マサキ
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[ガストロノミア
プルサーマルの大惨事が起こる前に
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 昨年、JARO(日本広告審査機構)が、「原発はクリーン、とするCMの表現は不適切である」という見解を発表しました。

 問題の発端は、東京電力などでつくる電力事業連合会による雑誌に出したCMで「原子力発電はクリーンな電気のつくり方」とCO2を放出しないと謳ったことに苦情を訴えたライターの方がJAROに「誇大広告」だと訴えたことに始まります。

 それに対してJAROは、放射能漏れなどを考えれば到底「原子力発電にクリーンという表現を使うことはなじまない」と誇大広告だと苦情者の主張を認めるものでした。

 それに加えて、新たな原発の温室効果に証拠データを元に、疑問を呈する記事が『しんぶん赤旗』に掲載されています。

 省庁が出している集計データ『温室効果ガス排出量算定・報告・公表制度』(2006、07年度)から「日本の原子力発電所や核燃料製造施設などから、中規模火力発電所一カ所分並みの年間約八十二万トンの温室効果ガス(CO2とフロン)が出ていることが(中略)分かりました。このデータは本紙が情報公開を請求して入手したもの。原子力関係の排出実態がわかったのは初めて」だそう。

 巷では、「温室効果ガス排出量は最悪の9%増 原発停止が影響」(『産経新聞』2009年4月30日付)など、今までの世界的な趨勢になりつつある「原発はクリーンなエネルギー」というキャンペーンに一石を投じそうな予感がします。

 っていうか「原発はクリーンなエネルギー」が事実上の誇大広告だと判断される論拠となるでしょう。

 上記の図をご覧下さい。
 静岡県にある浜岡原発で原発事故が発生した際に起こるであろう放射能汚染の拡大をシュミレーションしたものです。

 プルサーマル(プルトニウムを熱中性子炉(サーマル・ニュートロン・リアクター)で燃やすという和英語)計画を実施しようと、フランスのシェルブール港から1.7トンのプルトニウムを積んだMOX燃料(ウラン・プルトニウム混合燃料)が九州電力玄海、四国電力伊方、中部電力浜岡の各施設に搬入されました。

 MOX燃料による放射能漏れ事故があった場合は、通常のウランによる放射能漏れ事故よりも人体への危険性が増すと指摘されています。

 99年に来日したエドウィン・S・ライマン博士(核管理研究所(NCI)科学部長)の話によると、高浜原発(83万キロワット)をモデルケースとして重大事故が発生した場合、MOX燃料を使用した場合、潜在ガン死の数は、161〜386%、急性死の数は、60〜480%高くなると言います。

 MOX燃料が炉心全部に装荷されていた場合の放射能漏れ事故による被害者は、潜在的ガン死は15,900人から155,000人。急性死は64人から2,420人に昇ると指摘しています。

 プルサーマルの危険性を警告する

 プルサーマル計画で使用される予定の、浜岡原発4号炉は、113.7万キロワット。
 高浜原発の約1.36倍の規模。
 この規模をライマン博士の推定ガン死者と急性死亡者を計算すると実に210,800人/3291人に膨れ上がるのです。

 メルトダウン(炉心溶解)というチェルノブイリ事故のような惨事になったら日本などは逃げ場がないのです。
 大気中に大量の放射能撒き散らして、多くの犠牲者を出すような原発に頼らないエネルギー政策の転換を真剣に考えるべきだと思います。

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Posted by マサキ
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[ニュースでコラム
ある訪問販売者との会話〜過剰な「さん」付け文化に違和感〜
 ピンポーン!

 僕はそのとき夜勤明けで寝ていたのです。

  ピンポーン!ピンポーン!!・・・

 いつも寝ているときは応対しないのですが、パートナーが子どもとどこかに買い物に行っているようで、ドアホンから何度も押されるプッシュ攻勢に嫌気がさして、ついつい応対してしまったのが間違えでした。

 「あの〜、読×新聞のものですが。」

 「あ、ウチ新聞取ってるからいりません」

 断ろうとすると、取り次いでもらいたいのか、あちらさんも必至で

 「その〜、ウチのサービスはいいんですよ(サービス内容の説明は略)。朝×さんよりもいいと思いますよ。ウチはお客さんに新聞を読んでもらうだけじゃなくて、洗剤もつけていますし、他業者さんよりもずっといいんですよ。」

 妙に「さん」付けするのに鼻持ちならない。
 だけではなくて、眠たいのだ。

 「いや、ケッコー・・・」

 いい終わらないうちに、
 「そんなことをおっしゃらないで下さいよ。ジャイアンツ対中×さんのドームチケットもつけちゃうんですよ。お宅は、ジャイアンツさんファンですか?」

 「いや、どこのファンでもないので。ただ、神宮あたりでナイターを観戦しながら、ビールをやるのは好きですが」

 余計なことを言ったのが悪かった。

 「ありますあります。ツバメさんの神宮のヤツ。ありますよ。あの〜、頼みますよ。だからとってもらえないですかねぇ。お隣さんもとってくれたんですよ。だから頼みます。この通り!」

 一生懸命新聞の販売に精を出す方の寝起きの会話はきつい。

 「イヤ、ウチはケッコーですから。すいませんね」

 それにしても、新聞の部数が激減していて、本当に大変なんだろうなぁと思いつつも、販売店員を追い返してしまいました。

 販売者さんごめんなさいね。寝起きなモンで。
 
 でも新聞販売の方の話で妙に気になった他業者や会社に「さん」付けで会話するって、多くなったような気がします。

 朝×さん、他業者さん、中×さん、終いには自社がオーナーであるはずの野球チーム・ジャイアンツまで、口が滑ったのか「さん」付けなのです。

 何で、そんなに個人でもない法人が「さん」をつけられなければならないのか疑問です。
 
 インターネットで検索してみて、こんなのがありました。

 企業が「サン・サン運動キャンペーン」とか、「さん付け運動」をしているのだそうです。

 役職者の肩書きでの呼称を廃止して「さん」付けでと呼ぶのだそうです。

 でも、企業に「さん」付けをするのとはちと違う。

 ありました。

 企業名、会社名にさん付け?【接客業】

 質問者は、「○○(企業名、店舗名)さん」と呼ぶ言い方は間違っていると、以下の点を上げています。

 「目の前にいるお客様」が第一の優先(敬称)であり、
 他の店舗などに「さん」を付けるのは失礼、不必要」だという意見かのようです。

 そこで印象に残った回答で企業「さん」付け賛成の意見の方は、「会社とはいえ法人という人格をもった人」だという意識を持っている方がいて、ちょっとビックリ。

 そうかぁ。法人が人格なのかぁ。

 そして、さらに次の回答者は、「全国的に有名な企業なら呼び捨て。地元だけの個人企業/個人商店なら「さん」付け」がいいのではとしています。

 そうかぁ。折衷案がでましたねぇ。

 法人でも、個人商店はより顔が見えるから「さん」。

 そして、「同業者/ライバルでしたら、さん付けが必要」だとも言っています。

 その「同業者/ライバル」の場合の「さん」付けの使い分けがさっきの「有名企業/個人企業」との使い分けから分からなくなってきました。

 この「さん」付け、暗雲に乗り上げてきた感がありますが。

 僕的には「接客業」である、ということに加えて尊敬の意志を表明する範囲でであれば、その「さん」付けはよろしいのではないかという結論に達してきました。
 でも自分たちの会社に「さん」付けしたりするような間違えや過剰な「さん」付けは控えるべきだと思います。

 それよりも表面的な「さん」を付けることよりも、どこまでその人間関係が尊敬しあえる関係かということ。会社や社会で、人と人との関係が大切にされ、尊敬しあえるパートナーシップを築けているかということの方が、今の日本社会にとって焦眉の課題だと思うのです。
 みなさんは、いかがでしょうか?

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[思考する時間
科学と霊性の間の宇宙誌
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 <コペルニクス『天体の回転について』天体図より>

 以前、「人間の宇宙観から〜世界天文年に〜」を書いたとき、ジョルダーノ・ブルーノの宇宙観が当時の人々のもつヨーロッパ的な世界観とだぶるのではないかという珍説を披瀝させていただきました。

 それは、人々が生活を求めて集まってできた街を小宇宙とし、街から一歩でたその他の世界を総称して大宇宙とした当時の世界観が、異端の廉でヨーロッパ各地を放浪せざるを得なかったブルーノをして、宇宙観をそこから掴んだのではないかと勝手に邪推してみたのです。

 もうちょっと掘り下げると、ルネッサンスのイタリアからプロティノス( 205年? - 270年)やプラトンのいる時代にさかのぼる歴史絵巻を、通奏低音のようにその世界観から教えてくれるのです。

 それは、ジョルダーノ・ブルーノという方の遍歴を観察することで伺うことができます。
 確かに、ブルーノはコペルニクスの宇宙観に強いシンパシーを持つだけではなく、ヘルメス学を信条とした神秘思想の持ち主だでした。
 
 カトリックの宇宙観は、地球は何層にも別れた不動の中心にあり、その中心には勿論ローマがあって不動だ・・・というようなものでしたが、コペルニクスによって地動説がとなえられたのです。
 しかし、コペルニクスは、地球が自転していることを述べたのに留まり、月や地球は、他の天体とは違うと「中心説」は相も変わらずカトリックと同じだったことが伺えます。
 一方で、ブルーノの宇宙観では、宇宙は無限であり、宇宙とは一者(神)の像であり、そこに中心は無いのだと述べています。そして、中心もない相対的なものが宇宙であり、地球だと主張したのです。

 同時代のガリレオ・ガリレイやティコ・ブラーエは、このような宇宙の無限性や地球の非中心性を述べるようなことはしませんでした。彼らは、星の観察を通じて得た結論でしたが、仮説やそのモデルについては旧態依然のままだったのだと思います。
 一方のブルーノは、数学や実験的観察による科学的な役割を過小評価していたと言えるかと思います。
 しかし、ガリレオなどがコツコツと地道に積み上げてきた数学や実験的観察とブルーノの想像力とは、科学というものを考えるとき切っても切り離すことができない方法論の原点だと思います。
 仮説から実証的な実験を通じてつかんだりすることがあれば、実証的な実験や数学的な発想によって仮説が立てられたりするのが科学的だからです。

 『無限・宇宙と諸世界について』ですが、宇宙のモデルについて要約すると以下のようになるでしょう。
 神を知るためには、自然が神の像を知ることであり、神が無限であれば自然も無限の存在である。地球も運動しており(地動説)、他の星々の中の一つだと見なしている。一つの全体としての宇宙は静止し、方向や中心もないが、その中の個々の世界や星々は運動している。そして、地球上にある物質と天界にある物質との違いはないと、大胆にアリストテレスらを容赦しませんでした。

 なぜブルーノが宇宙秩序を考えたとき、宇宙は一者(神)であり全体(無限)だと考えたのか、実のところ僕にはわからないのですが、ブルーノが影響を受けた思想家たちにもあると考えられます。

 『イタリア・ルネサンスの哲学者』(P・O・クリステラー:みすず書房)には8人のルネサンス時代のイタリアに限定した思想家たちを扱っています。その中に、フィチーノやピーコらに並んでブルーノも登場しています。
 ブルーノが誰の影響を受けたのかといえば、先のアリストテレスやプラトンもそうですが、新プラトン主義者のプロティノス、そして意外にもニコラウス・クザーヌスに影響を受けているようです。

 プラトンの『パルメニデス』の中では「一なるもの」(ト・ヘン)すなわち「語りえないもの」が登場しますが、これを神と同一視します。
 
 プラトンは、「一なるもの」が世界に顕現した時、二つの方向性が異なる働きがあることを語っています。一つは、「一なるもの」からすべてのモノが流出して、世界を創造しているというもの。そして二つ目は、すべてのモノが<一なるもの>へ帰ると仮定します。
 よーするに、神が<下降>し宇宙や世界を創り、すべてのモノが<上昇>して神に帰るという理論です。

 <一なるもの>が神であり、<一なるもの>の善性として宇宙や自然界があると説いたのです。
 神についての論争は、実態が見えない分、自然や宇宙を「神」と解釈する中で豊かになっていき、同時に自然観察を通じて行ってきた神学論争がいつの間にか自然科学の発展につながっていったのではないでしょうか?

 神の存在は無限か否か?だったら神の像である宇宙は、無限か否か?ってな感じで。

 キリスト教は神に導かれることばかり考えがちな、あらゆるモノが神に帰るという<上昇>思考で物事を考えていたようです。同時に、近代科学の祖であるコペルニクスだって地球という中心には神が存在するという中心説思考は、結局のところキリスト教の意識と同じだったと思います。

 そのキリスト教的な意識を変えたのは、ほかでもなくプロティノスから考え続けられてきた<一なるもの>を宇宙の無限という主張を引き継いできたブルーノを待たなければなりませんでした。

 プラトンからおおよそ2000年の年月を要するわけですが、ブルーノが影響を受けたと言われているプロティノスは、西洋思想の中では異端思想として毛嫌いされるような節もあり、宇宙の無限性や「世界霊」などを説く人物でもあります。
 それを今流行の言葉で言えば<スピリチュアル(魂)>とでも呼ぶのでしょうか?

 で、神の元へ<上昇>していく世界のことはキリスト教などが考えたのですが、<下降>してくる神の事は、実はプラトンの弟子であるプロティノスが考えていたのです。
 その科学的に説明できない瞑想などの東洋的な要素を通じてプロティノスは、<一なるもの>について説明していきます。
 <一なるもの>は、すべてのモノの限定性、有限性の源であり、かつそれらの有限性を超えた、無限であると説いています。
 人生の目的とは、この<一なるもの>に帰ることなのだと。人間の魂のみはその理性と繋がっているので、<一なるもの>との合一に憧れるのだそうです。

 プロティノスの著作自体は、中世のルネサンス期の人文主義者・フィチーノがラテン語に翻訳したことで再発見されています(1492年に刊行)が、西ヨーロッパでは、その頃”絶版”状態でした。

 続く『学識ある無知について』で知られるニコラウス・クザーヌスは15世紀に活躍した神学者です。
 彼の宇宙論も展開している『学識ある無知について』はまだ読んでいないのですが、「神は至る所に中心を持ち、しかしどこにも円周を持たぬ無限の球である」というヘルメス文書の創始者の引用などをしているらしいのですが、これはブルーノの宇宙の非中心説とまるきりうり二つのように見えます。
 クザーヌスは、キリスト教徒にもかかわらず、このようなヘルメス学などの異端視されるような文章も読み、独創的に宇宙と神を語っているのです。

 結論としては、先人たちの思想をどん欲に主張したブルーノをもってして、<一なるもの>は、宇宙であり、無限であり、一即多であり多即一だと現代的な宇宙論の意味あいをもった思想性を蘇らせています。

 まさに2000年という驚くべき年月を経て勇気ある表現者ブルーノをして、不死鳥のように再現させられたのです。
 その意味で、ブルーノの業績は、当時のキリスト教的な世界観である地球中心説やコペルニクスの中心説を凌駕した、人々の認識の革命的な転換だと思いますが、同時に古き新しい問題を再提出しただけとも言えると思います。

 そう考えると、先人たちの思想や科学は、越えられているようで越えていない。
 普遍的な物事の考えを先人たちから受け継ぐということはまだまだ僕らの課題でもあるのだと思います。

 でも、疑問は残るんですよね。
 クザーヌスは15世紀のドイツで、ブルーノは16世紀のイタリアが舞台です。
 これほどブルーノが思想的にも影響を受けたクザーヌスは何で天寿を全うできたのでしょうか?やはり、ドイツとイタリアという土地柄、風土ってやつでしょうか?そこら辺の歴史的な背景についてはもっと調べてみると面白いかもしれません。

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Posted by マサキ
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