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コペルニクス『天体の回転について』天体図より>
以前、「
人間の宇宙観から〜世界天文年に〜」を書いたとき、
ジョルダーノ・ブルーノの宇宙観が当時の人々のもつヨーロッパ的な世界観とだぶるのではないかという珍説を披瀝させていただきました。
それは、人々が生活を求めて集まってできた街を小宇宙とし、街から一歩でたその他の世界を総称して大宇宙とした当時の世界観が、異端の廉でヨーロッパ各地を放浪せざるを得なかったブルーノをして、宇宙観をそこから掴んだのではないかと勝手に邪推してみたのです。
もうちょっと掘り下げると、ルネッサンスのイタリアから
プロティノス( 205年? - 270年)や
プラトンのいる時代にさかのぼる歴史絵巻を、通奏低音のようにその世界観から教えてくれるのです。
それは、
ジョルダーノ・ブルーノという方の遍歴を観察することで伺うことができます。
確かに、ブルーノは
コペルニクスの宇宙観に強いシンパシーを持つだけではなく、
ヘルメス学を信条とした神秘思想の持ち主だでした。
カトリックの宇宙観は、地球は何層にも別れた不動の中心にあり、その中心には勿論ローマがあって不動だ・・・というようなものでしたが、
コペルニクスによって地動説がとなえられたのです。
しかし、
コペルニクスは、地球が自転していることを述べたのに留まり、月や地球は、他の天体とは違うと「中心説」は相も変わらずカトリックと同じだったことが伺えます。
一方で、ブルーノの宇宙観では、宇宙は無限であり、宇宙とは一者(神)の像であり、そこに中心は無いのだと述べています。そして、中心もない相対的なものが宇宙であり、地球だと主張したのです。
同時代のガリレオ・ガリレイやティコ・ブラーエは、このような宇宙の無限性や地球の非中心性を述べるようなことはしませんでした。彼らは、星の観察を通じて得た結論でしたが、仮説やそのモデルについては旧態依然のままだったのだと思います。
一方のブルーノは、数学や実験的観察による科学的な役割を過小評価していたと言えるかと思います。
しかし、ガリレオなどがコツコツと地道に積み上げてきた数学や実験的観察とブルーノの想像力とは、科学というものを考えるとき切っても切り離すことができない方法論の原点だと思います。
仮説から実証的な実験を通じてつかんだりすることがあれば、実証的な実験や数学的な発想によって仮説が立てられたりするのが科学的だからです。
『無限・宇宙と諸世界について』ですが、宇宙のモデルについて要約すると以下のようになるでしょう。
神を知るためには、自然が神の像を知ることであり、神が無限であれば自然も無限の存在である。地球も運動しており(地動説)、他の星々の中の一つだと見なしている。一つの全体としての宇宙は静止し、方向や中心もないが、その中の個々の世界や星々は運動している。そして、地球上にある物質と天界にある物質との違いはないと、大胆にアリストテレスらを容赦しませんでした。
なぜブルーノが宇宙秩序を考えたとき、宇宙は一者(神)であり全体(無限)だと考えたのか、実のところ僕にはわからないのですが、ブルーノが影響を受けた思想家たちにもあると考えられます。
『イタリア・ルネサンスの哲学者』(P・O・クリステラー:みすず書房)には8人のルネサンス時代のイタリアに限定した思想家たちを扱っています。その中に、フィチーノやピーコらに並んでブルーノも登場しています。
ブルーノが誰の影響を受けたのかといえば、先のアリストテレスや
プラトンもそうですが、新
プラトン主義者の
プロティノス、そして意外にもニコラウス・クザーヌスに影響を受けているようです。
プラトンの『パルメニデス』の中では「一なるもの」(ト・ヘン)すなわち「語りえないもの」が登場しますが、これを神と同一視します。
プラトンは、「一なるもの」が世界に顕現した時、二つの方向性が異なる働きがあることを語っています。一つは、「一なるもの」からすべてのモノが流出して、世界を創造しているというもの。そして二つ目は、すべてのモノが<一なるもの>へ帰ると仮定します。
よーするに、神が<下降>し宇宙や世界を創り、すべてのモノが<上昇>して神に帰るという理論です。
<一なるもの>が神であり、<一なるもの>の善性として宇宙や自然界があると説いたのです。
神についての論争は、実態が見えない分、自然や宇宙を「神」と解釈する中で豊かになっていき、同時に自然観察を通じて行ってきた神学論争がいつの間にか自然科学の発展につながっていったのではないでしょうか?
神の存在は無限か否か?だったら神の像である宇宙は、無限か否か?ってな感じで。
キリスト教は神に導かれることばかり考えがちな、あらゆるモノが神に帰るという<上昇>思考で物事を考えていたようです。同時に、近代科学の祖である
コペルニクスだって地球という中心には神が存在するという中心説思考は、結局のところキリスト教の意識と同じだったと思います。
そのキリスト教的な意識を変えたのは、ほかでもなく
プロティノスから考え続けられてきた<一なるもの>を宇宙の無限という主張を引き継いできたブルーノを待たなければなりませんでした。
プラトンからおおよそ2000年の年月を要するわけですが、ブルーノが影響を受けたと言われている
プロティノスは、西洋思想の中では異端思想として毛嫌いされるような節もあり、宇宙の無限性や「世界霊」などを説く人物でもあります。
それを今流行の言葉で言えば<スピリチュアル(魂)>とでも呼ぶのでしょうか?
で、神の元へ<上昇>していく世界のことはキリスト教などが考えたのですが、<下降>してくる神の事は、実は
プラトンの弟子である
プロティノスが考えていたのです。
その科学的に説明できない瞑想などの東洋的な要素を通じて
プロティノスは、<一なるもの>について説明していきます。
<一なるもの>は、すべてのモノの限定性、有限性の源であり、かつそれらの有限性を超えた、無限であると説いています。
人生の目的とは、この<一なるもの>に帰ることなのだと。人間の魂のみはその理性と繋がっているので、<一なるもの>との合一に憧れるのだそうです。
プロティノスの著作自体は、中世のルネサンス期の人文主義者・フィチーノがラテン語に翻訳したことで再発見されています(1492年に刊行)が、西ヨーロッパでは、その頃”絶版”状態でした。
続く『学識ある無知について』で知られるニ
コラウス・クザーヌスは15世紀に活躍した神学者です。
彼の宇宙論も展開している『学識ある無知について』はまだ読んでいないのですが、「神は至る所に中心を持ち、しかしどこにも円周を持たぬ無限の球である」というヘルメス文書の創始者の引用などをしているらしいのですが、これはブルーノの宇宙の非中心説とまるきりうり二つのように見えます。
クザーヌスは、キリスト教徒にもかかわらず、このようなヘルメス学などの異端視されるような文章も読み、独創的に宇宙と神を語っているのです。
結論としては、先人たちの思想をどん欲に主張したブルーノをもってして、<一なるもの>は、宇宙であり、無限であり、一即多であり多即一だと現代的な宇宙論の意味あいをもった思想性を蘇らせています。
まさに2000年という驚くべき年月を経て勇気ある表現者ブルーノをして、不死鳥のように再現させられたのです。
その意味で、ブルーノの業績は、当時のキリスト教的な世界観である地球中心説や
コペルニクスの中心説を凌駕した、人々の認識の革命的な転換だと思いますが、同時に古き新しい問題を再提出しただけとも言えると思います。
そう考えると、先人たちの思想や科学は、越えられているようで越えていない。
普遍的な物事の考えを先人たちから受け継ぐということはまだまだ僕らの課題でもあるのだと思います。
でも、疑問は残るんですよね。
クザーヌスは15世紀のドイツで、ブルーノは16世紀のイタリアが舞台です。
これほどブルーノが思想的にも影響を受けたクザーヌスは何で天寿を全うできたのでしょうか?やはり、ドイツとイタリアという土地柄、風土ってやつでしょうか?そこら辺の歴史的な背景についてはもっと調べてみると面白いかもしれません。
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