スポンサーサイト
愛娘の自己主張と17年目の「満月の夕」
ウチの3歳になる愛娘は、九州へ疎開した後ぐらいから
人に接する時にびくびくするようにになってしまった。
それからはチョットしたことで悲しくなったり怖くなってしまう。
家での好き嫌いを自己主張する時の駄々っ子ぶりは、
近所にも聞こえるほどの大声で実現するまで泣き叫ぶ。
下の子を母親が甘えさせていると実力で奪おうとする。
けど皆の前では、そんな自己主張ができなかった。
むしろ遠巻きに子どもたちの動静を伺いながらも結局その輪の中には入れない。
だけどどうやら自己主張が外でも出来るようになったようだ。
保育園で紙芝居を皆で読むそうなのですが、愛娘は見えなくてもジッとしていたらしいのです。
ところが昨日の愛娘は違った。
何が違ったのかというと紙芝居の前を占拠している子どもたちに
「見えない!見えないよ!」と言ったというのです。
保育園の保母さんも吃驚したようで、そのことをお迎えの時に興奮気味に話してくれたのです。
引っ込み思案の子がしっかりと自己主張し、実現しようとする時、とても怖かったし勇気も要っただろうと思います。そこを言えた愛娘にそのことを言うと、恥ずかしそうにしていたので「ちゃんと言えたんだ。とても偉かったねぇ。」と言うと誇らしげな笑顔に変わったのが印象的でした。
そんな愛娘が、今度は朝ご飯を一人で食べているではないですか!
これにも吃驚!!
いつもは、「ママ〜、パパ〜」と言いながら食べさせてもらっていたものを、一人で食べたのです。
子どもが自分の力で美味しそうに食べていると思ったらパワーをもらったついでに、
急にソウルフラワーユニオンを久々に聞きたくなった。
と思ったら、今日は阪神淡路大震災から17年経った冬の朝だったのです。
「満月の夕(ゆうべ)」
風が吹く港の方から
焼け跡を包むようにおどす風
悲しくて全てを笑う
乾く冬の夕
夕暮れが悲しみの街を包む
見渡すながめに言葉もなく
行くあてのない怒りだけが
胸をあつくする
声のない叫びは煙となり
風に吹かれ空へと舞い上がる
言葉にいったい何の意味がある
乾く冬の夕
ヤサホーヤ 唄がきこえる 眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ たき火を囲む 吐く息の白さが踊る
解き放て 命で笑え 満月の夕
絶え間なくつき動かされて
誰もが時代に走らされた
すべてを失くした人はどこへ
行けばいいのだろう
それでも人はまた 汗を流し
何度でも出会いと別れを繰り返し
過ぎた日々の痛みを胸に
いつか見た夢を目指すだろう
ヤサホーヤ 唄がきこえる 眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ たき火を囲む 吐く息の白さが踊る
解き放て 命で笑え 満月の夕
ヤサホーヤ 唄がきこえる 眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ たき火を囲む 吐く息の白さが踊る
解き放て 命で笑え 満月の夕
言葉が抵抗線を引く瞬間
瓦礫を跨いで寄せては去る波打ち際まで達し、
はるか向こうにある地平線に目を向けパノラマの様な風景が広がります。
静かな海。
それと対照的な街の姿。
恐らく陸地を海のものが押し寄せ、あらゆるものが砂に埋もれ、荒々しい姿を晒すその姿。
そこでは生活を営み、当たり前のように沖に出て漁をし、
夏は海水浴でにぎわう美しい風景と共に富を作り出した街だったのでしょう。
しかし、それが一瞬にして失ってしまい瓦礫と化している。
鉄筋と梁から無数の陸に打ち上げられた昆布や網が引っ掛かってるもの。
家に赤いスプレーで「×」印が描かれてあるもの。
「ありがとうございました」と壁一面に書かれているもの。
基礎だけになった建物の前に手向けられていた野菊。・・・
泳いでしまう。いや、泳がざるを得ないのです。私の目と心が。
そして、決してこれを表現する言葉が見つからない。
綺麗で美しい言葉や映像や「がんばれ」とか「絆」をマスメディアがこぞって報じ、死者の数字が踊るのですが、
この匂いと風景は、けっしてメディアのプロパガンダ表現とは違う固有時が流れるべきなのだと思うのです。
そして当たり前のようにAC(日本広告機構)のような言葉として何べんも何べんも茶の間に登場し、人々の中にサブリミナルのようにすり替えられていく。
しかし大切なのは、私という固有時と共に語られる風景や人間が自分の内面から孤独な価値観として立ち現われる瞬間を選択しなくてはならないと感じるのです。
話は変わってしまうようですが、原民喜の『夏の花』を先日読み返しました。
改めて原民喜を読んでみると、その描写の静寂なこと。そして染み入るのです。
8月の初旬彼は亡き妻のために墓参りをし花を手向ける。
その時のポケットに入れておいた線香の香りが残る描写がとても印象的です。
その直後に原爆が投下されます。
ヒロビロトシタ パノラマノヨウニ
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム (原民喜『夏の花』より)
人間は発話しようとする時、その人間の価値観、それを支えている社会や世界のありようを表現する。
その時に人は何を感じ、何を表現しようとするのか?
これを描写することが何を意味するのか?
何を言おうとする のか?
原民喜から見た静寂だった風景そのものを消し去るような描写が急に片仮名に代えてまで表現しようとした時、
原爆の凄まじさが私の中で染み入るのです。
ニンゲンノ 死体ノ キミョウナリズム
このリズムは、原民喜をして原爆という人間否定そのものへの静かな怒りを表現した精一杯の描写
と感じていたのですが、とんでもない。
これは、唯一にして無二の彼の人間の死に様を無責任にも描くことで、
死を引き離しながら語ろうとした何かなのだと思うのです。
繊細なまでに描かれた愛する妻の死と原爆による死者への無責任な程の突き放したような描写、故に「キミョウナリズム」で「ニンゲンノ 死体」が存在することの超現実的なまでに消化された無常感が強烈なまでに読む者をして胸を打つ。人間が生きている根拠や情景たちがしみ込んでくるのだと思うのです。
この瞬間に、原爆に対する、人間否定に対する憤怒や弾劾が表現されているような気がするのです。
さて私は何を語るべきなのか?
何を言おうとするのか?
何を灯そうとするのか?
ネグリの朝日新聞の年頭インタビューでこんな記者とのやり取りがあったことを新鮮な気分で読んだのです。
記者 「私もマルチチュードの一部になりえますか。」
ネグリ「もちろん。ただし、あなたの仕事が「知」を得ることなら、です。
もしプロパガンダなら、マルチチュードとは呼べません。」
あたらしい

緩やかなカーブ、爽快な空のもとで交通事故をおこした
まったくといっていい程の怒りはドアから飛び降りてくるなり殴りかからんばかりだった
彼の罵声を浴びせるセリフより、
ワナワナと震える唇と涙腺から溢れだそうとする一滴の涙を覚えていた
それから空だった
怒りのあまり浴びせられる罵声から凄まじいツバが飛んでくる
その時に横を振り向くとスーパーの駐車場で交通整理する警備の方の私を咎めるように見つめているので、バツが悪いので更に更に真上を向いて空をまじまじと見た
あの空に浮かぶ雲の白さに
311後のとめどなく溢れる私がいるのだと思うと
蒸し暑い あの空に浮かぶ雲を見たのははじめてだと素直に思えたのだ
あの真っ白な雲を見る前だった
寄る辺ない家族が国東半島にたどり着いたのは
あの空を見る前だった
現実を受け止めることさえもできない東へ西へ私がうろついていたのは
はじめて見る真っ白な雲は梅雨の終わりを告げた雲だった
真っ白な雲は一瞬である
真っ白な雲は永遠である
灼熱の怒りと悲しみ、非望の果てに
この青空を眺められることが次は可能だろうか?
あたらしい出逢いが待っている
あたらしい旅が待っている
あたらしい、一瞬の雲が待っている
社会の主人公として登場するということ
先日、心療内科に行って診察を受けるついでに先生とまた一杯。
精神鑑定となる精神疾患について話を聞く機会があった。
それは、人間とは何か?というところに通じているので非常に印象深い話だった。
聞くところによると最近、ある受刑者の精神鑑定を依頼されているというのだ。
受刑者の調書から、その受刑者が精神疾患かどうか、人格異常かどうかを鑑定するのだという。
先生は日本酒をチビリとやりながら、おおよそ次のように話した。
日本の刑法は人間であれば刑罰を受けられるが、鑑定によって刑罰から除外されるという特殊性がある。すなわち刑罰を受けられるのは人間であるという点なんです。人間であることさえも除外されるのは、鑑定によって精神疾患と認められる者に限られるということなんです。
脳性マヒの人々で組織する『青い芝の会』が母親による2歳の脳性マヒ児を焼却炉で殺害するという事件があって、その厳正処罰運動を展開した。あの提起は凄かった。なぜなら自らの障がいが殺されながらも公的に加害者が減刑の対象となることに異議申し立てしたのだから。かれらは障がいを背負って生きている者も人間であり、そこから考えよと提起したんです。
では何故その刑法が障がいを負っている人間を適用除外したのかということを聞いてみた。
すると、先生はしばし考えてからまたなみなみ注いでもらった日本酒に口を近づけすすりながら次のように話す。
日本の刑法は、西洋から取り入れたものですから、西洋の近代合理主義思想の影響が濃厚です。その中で西洋的理性的人間像が刑法の中に多分に取り込まれた。すなわち、理性的人間が刑法に適用されるのであって、鑑定によって精神疾患と認められる者、精神疾患とされる人間は理性的人間ではない、すなわち人間ではないとされることなんです。精神疾患者たちが、刑法からも差別される所以となる根拠はここにあるのだと思います。
自分の子どもを母親が焼却したことは障がいがあるなしに関わらず平等に刑事責任をとれ。障がいをもった人たちが殺されたら減刑になるなんて法律がおかしい。刑法が人間に適用される法律であるなら、同じ事件でありながら適用される人間が精神障がい者だからと甲乙をつけて量刑する当事者抜きの法体系、社会に、あえて母親への厳罰化という提起を行った、ということだろうか?
『青い芝の会』をそれまで知らなかったのですが、家に帰ってそのHPを拝見させてもらうと「行動綱領」なる文章が目を引いたので引用させていただく。
一、われらは、自らが脳性マヒ者であることを自覚する。
われらは、現代社会にあって『本来あってはならない存在』とされつつ自ら位置を認識し、そこに一切の運動の原点を置かなければならないと信じ且つ行動する。
一、われらは、強烈な自己主張を行なう。
われらが、脳性マヒ者であることを自覚した時、そこに起こるのは自らを守ろうする意志である。われらは、強烈な自己主張こそがそれを成しうる唯一の路である信じ、且つ、行動する。
一、われらは、愛と正義を否定する。
われらは、愛と正義のもつエゴイズムを鋭く告発し、それを否定する事によって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且つ、行動する。
一、われらは、健全者文明を否定する。
われらは、健全者のつくり出してきた現代文明が、われら脳性マヒ者を弾き出すことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動及び日常生活の中から、われら独自の文化をつくり出すことが現代文明の告発に通じることを信じ、且つ、行動する。
一、われらは、問題解決の路を選ばない。
われらは、安易に問題の解決を図ろうとすることが、いかに危険な妥協への出発であるか身をもって知ってきた。われらは、次々と問題提起を行なうことのみが、われらの行ない得る運動であると信じ、且つ、行動する。
かれらがこの様な綱領をもって行動するようになったのも、障がいを持った人間を人間扱いせず差別してきた「健常者」たちの差別や優生思想が背景にあったからなんだろう。
その歴史をざっと調べてみたけれども、それは実に恐ろしいことだ。
戦前(1940年)施行された国民優生法では、「悪質なる遺伝性疾患の素質を有する者の増加を防ぐ」ことと「健全なる素質を有する者の増加を図り以て国民素質の向上を期すること」を目的として施行されている。
「悪質」なる対象となる「遺伝性精神病」「遺伝性精神薄弱」「強度且悪質ナル遺伝性病的性格」「強度且悪質ナル遺伝性身体疾患」「強度ナル遺伝性畸形」が疑われる場合は断種や堕胎などの「優生手術」強制的に受ける。
この法律で、どれだけの障がいを持ったり疑われた人間が断種手術や堕胎を強制されたことだろうか?
人間として「優生」でない種は抹殺されても良いと法律で明記されていたことを戦前の日本は「常識」としていたのだ。(ただ戦前の日本だけではなくその「常識」である優生思想はナチスドイツに代表されるが世界の中で現存している)
その優生思想とやらは戦後になっても何度も息を吹き返しては、障がい者を社会や法律あらゆる場で人間として扱わないことを繰り返していく。優生保護法にあった強制的手術が行われなくなったものの母体保護法という法律に変わって息を吹き返し、県費で母体チェックを行い「不幸な子を生まない県民運動」なるものが平然と行われたり、電車やバスでの車いすでの乗車を拒否されたりした。
知らなかったことが多すぎて整理できないのですが、HPの年表を見ていると次々と当事者抜きの勝手な「愛」や「正義」を与える側に自分が立っていないか正直言って垣間見る。
同時に、あの行動綱領を掲げてかれらが行動し信じたことの意味を、自ずから考えていかなければならないことを教えてくれる。
18世紀のフランス革命が勝ち得たものは自由・博愛・平等だった。
しかし、考えてもみると「自由」や「博愛」や「平等」が一体誰のものとなってしまったのか?
革命後の暴君と化した一部の支配者と人間のみのスローガンとして終わって、その精神を引き継ぐべき多くの人々がどれだけ蚊帳の外にあふれていたことだろう。空虚なスローガンの押し売りが始まって当初の革命を目指そうとした人々が断頭台に消えた。その後のフランス革命の進展をみると解る。
しかし、その精神は革命が勝ちえたものであって生きている。生きているから「自由」や「博愛」や「平等」の精神が豊かになって、その後の世界を何度でも塗り替えようとしていくのだろう。しかも、それは社会の主人公となるべき幾千幾万もの人々が登場しては塗り替えられようとしては敗れ去る。
それは決して偶然ではない。
豊かにするのは当事者たち自身の問題であって、他人が押しつけて成り立つ時にスローガンと粛清、少数派への無視(多数派の押し付け)が始まるのだから。
そして、決してそれが完結したものではないということも20世紀の歴史が教えてくれる。
4年前、『不快なものを拒否するということ〜駅の階段で〜』という記事で紹介したのですが、父親が障がいをもった自分の子どもを駅の階段で「ゴン、ゴン」と頭を打ちつけながら引きず降ろしているのを目撃しました。
その行為を止めようと父親に制止させ、子どもの方を振り返り「大丈夫?」と声をかけると彼の目が怒りの表情で私を見つめている。それは父親ではなく、明らかに私を睨んでいたのです。
父親の制止をしたことが、物言わぬ彼にとってどれほどの制裁を受けるのか、彼ほどよく知っているからだとその後思いました。制止したことは「正しかった」のでしょう。しかし、物言えぬ弱い立場であるほど、保護者づらした親から逃げることもできない絶望感を嫌というほど味わい、知っている。同時に、いつもは知らぬフリをしていざとなったら偽善者ズラして現れたんだと言われたような気がした。
そのことを考えたら、その父親の白昼堂々の蛮行を止める止めないに関わらず、問題は解決されないんだなぁ、ということを後々考えていました。
「愛」や「正義」を押しつけてくるのは当事者ではなく当たり前だと決めつける私の中の「常識」をこそ凝視せねばならない瞬間でした。障がいを持った人間にとって社会はどのように映るのか?ハンディキャップや異質であることで違和感を植え付けるものは何か?
障がいをもった人間を人として認めない発想が優生思想の中に脈々と息づいているとしたら、今を生きる私は無関係と言えるのか?障がいによるハンディキャップを負った人たちが生きられないことと企業で成果主義の下でランク付けされる人々が解雇されやがて生きることさえも困難になることとどれだけ違いがあるというのだろうか?
優生思想による過当競争の中で、母体の中の障がいを持った子が堕胎され、学力の低い生徒がランク付けされ、特殊学級に編入され、会社に入れば優秀か否かの選別を常にされる。
この選別思想を承認するものは、沈黙せるマジョリティとして振る舞っている限り、選別思想が社会の「常識」として承認されているものも、結局は私たち自身なんだと思う。
少なくとも自らが「愛」や「正義」を自らの社会のために語りたいと最近頻繁に思うようになってきている。
自分の思いや夢について子どもにはいつか押し付けではないものを語り合いたいと思うのです。
異端であれ少数であれそれが多数となり主人公の声となっていくのだとウォール街を占拠する人々の中に感じたエピソードがありました。
ウォール街を市民が占拠したとき警察から徹底的な排除を受けたりしたのは記憶に新しいですが、さらには拡声器さえも使用を禁止したのです。
そこで参加した市民たちが考えたのが人間マイクロフォンです。マイケルムーアの演説をシンプルにしかも参加している人間一人ひとりがマイクロフォンとなって拡散していく映像には、驚愕し感動しました。
結局最後は肉声なんだと。
テレビや企業は都合の悪い部分はカットして、人間は駒のように切り貼り使われているけれども、少数が多数になり自信を取り戻す瞬間をこの映像で感じることができたのです。
社会の主人公であることとは、異質を異質として認め合い、押し付けではない大きな拡声器になることで支配者に異議申し立て行動を行うことで社会を変えていくことも可能ではないか?
安易な結論は抜きに一人ひとりが声を上げること、他者の拡声器になり自分を、社会を、世界をかたることなのだと。
「非常識だ」と沈黙させるマジョリティの論理の殻は、「常識」を疑うマイノリティたちが声を上げる場所から次々と打ち砕かれる。そして、次の世界を作る新たな人間像がそこから始まるような気がするのです。
時たまボクシングを見たくなる。
私の中でのボクシングは、内なる自分に向けられる。
いつまでもいつまでもトレーニングを積み
その中から生み出す汗から繰り出されるパンチには、
場末でケンカする人間たちより漲る明日があるような気がするのです。
果てはパンチドランカーとなってもまったく惨めじゃない。
やるべきことをやり抜き、枯葉のように散っていく。
トレーニングで引き締まった身体に汗が光り、実践で相手と真剣に交えるもの。
それは一期一会、と言いえて妙な表現がぴったりではないだろうか。
特に畑山隆則がJrライト級タイトルマッチでコウジ有沢と対戦してKOを取った優勝戦。
これは、カッコよすぎる。
ボクシングの良さなんて説明でいるものではなのでしょうが、この一戦を見るだけで解ることでしょう。
何が?
何かが。
助け合うことだ!
今日は、朝から3歳になる愛娘の保育園で餅つき。
太鼓に合わせて「ペッタンコ、ドッコイショ。ペッタンコ、ドッコイショ。」と掛け声をかける。
すると餅つく子どもたちが最初は頼りなさそうに慣れない手つきですが、
段々と勢いよく振り下ろせるようになってくる。
あさっての方向についててしまうこともあるけれども、
最後は自分が一人前に餅を作ったという自信に満ちた顔に変わっていました。
子どもたちみんなで餅をつく姿には、誰もが美味しそうな頬っぺたで嬉しそう。
そんな餅つきと手拍子と掛け声を聞いていると映画『7人の侍』のワンシーンを思い出しました。
農作業をしているお百姓さんたちが太鼓を叩いて田植えをする姿です。
圧政による飢饉と野武士たちを退治した後の晴れ晴れとしたお百姓さんたちの姿と掛け声と子どもたちの手拍子と餅をつく子どもたちが重なります。
辛い仕事でも皆で掛け声で鍬や鋤を手に取りリズムをとり、協力し合って行えば苦労も楽しくなる農作業。
そう考えると、音楽ってそんな作業の中から生まれたんだろうなぁと感慨にふけるのです。
その掛け声と子どもの餅をつくリズムがあってくる頃に、ネバっとした餅が次々と出来上がる。
餡子餅、大根(からみ)餅、きな粉餅がメインでしたが、色々な味付けコンテストがあって、
イタリア風(トマトとチーズ)が意外と一位。
私としてはからみ餅が一番でしたが、このイタリア風も工夫ひとつで美味しいアレンジが出来るもんだと納得。
けんちん汁と一緒に家族と他の子どもたちで頬張って見ると、
冬にもかかわらず焚き火に当たりながら温かく美味しいひと時が過ごせました。
この映像は、3.11の震災後にチャップリンの『独裁者』の演説を現代的にアレンジしたもののようです。
やはりというべきか、流石というべきか。チャップリンの慧眼は、3.11震災後の今だからこそより輝きを増すのかもしれません。
困難な時だからこそ、危機の時だからこそあの演説の人間宣言は輝きを増すのでしょう。
君たちは機械じゃない。
君たちは家畜じゃない。
君たちは人間だ。
君たちは心に人類愛を持った人間だ。
憎んではいけない。
愛されない者だけが憎むのだ! (チャップリンスピーチより)
もう一度、この演説の意味をかみしめる時なんだろうな。
早川由紀夫氏への大学の処分が意味するもの

早川由紀夫(群馬大学教授)氏という方を知っていますか。
彼は、放射能汚染地マップを公共や個人が計測する空間線量などを詳細に分析し公表した方です。
もともと火山学者として知られ、SPEEDIが三宅島の噴火の際には即座に適用されたのに、福島で起こった原発事故では公表されないということから自分で汚染地マップを作製し、警告してきた。
当然、汚染地マップの反響も大きく今年の『読売年鑑』には掲載されるそうだ。
その彼がツイッターで上で福島県中通りでコメをつくっている農家を、「サリンを製造したオウム信者と同じ」だと書いたことから、大学当局に「苦情」が殺到したため訓告を発令したというのだ。
「サリンを製造したオウム信者と同じ」という発言には、ちょっと単刀直入過ぎるというよりも、明らかに農民たちを敵に回してもおかしくないだろう。その覚悟の上で、農産物への放射能汚染と危険性を訴えたものだと思う。
福島県中通りの農民が「サリンを製造したオウム信者と同じ」という早川氏のことをバッシングするのはいい。しかし、早川氏をバッシングをしてる人間の中に、毒を撒いているのか、否かということを客観視し、科学的に検証する人間がどれほどいるというのだろうか?
農薬や遺伝子組み換え食品が危険視されているからこそ、人々はTPPに反対したり有機農法の野菜や遺伝子組み換え会社であるモンサントを弾劾するのだ。この農産物の「安全」が、新たなリスク要因・放射能によって脅かされていることは明らかだ。
「基準値」なるものが散々言われるのも「ただちに健康に影響ない」レベルかどうかであって、ドイツなどはもっと厳しい。乳幼児などに摂取させてはならないと1ベクレル単位の規制がなされている。
この点を真剣に考えた上で早川氏の意味を異論としてとらえるのなら良い。
放射能汚染は「風評被害」ではなく明らかに危険なのだ。
というよりも、放射能による内部被ばくを農産物などから摂取することがどれだけのリスクが人体にあるかということだ。
それにしても大学当局の対応はあまりにも酷い。
早川氏への言い分よりも、処分がまずありきという対応に見受けられる。
訓告を受けた当の早川氏の記者会見さえも「施設管理」を理由に妨害するという始末である。
東京新聞や海外のメディアでも群大の対応が取り上げられている。
「訓告」が意味するものは、施設の使用や教授という職分にありつける裁量権限は大学の長=権力の意向であって、黙って従え、という脅しのようだ。
では、「セシウムは体内から排出されるから大丈夫」とか「プルトニウムを飲んでも大丈夫」という教授たちはどうなのか?彼らは「毒ではないですよ」といって毒物を勧める学問と科学の風上にも置けない人間どもではないだろうか。原子力ムラの庇護のもとで発言している教授たちが群大にもいると見受ける疑惑さえある。
「群馬大は日本原子力研究開発機構(原子力機構)と連携協定を結んでおり、原子力ムラ批判の言論封じと疑う向きも。
立教大社会学部の服部孝章教授も『国立大こそ開かれていなければならない。処分された当事者の言い分を聞くのは当た前。会見中止を求める不可解な行動は、どう勘繰られても仕方がない』」(『東京新聞』12月10日付「こちら特報部」より)
原発の汚染地帯を独自の学問ノウハウでいち早く万人に伝え、危険性を訴えていた早川氏への狙い撃ちとも取られかねない群大の騒動。
早川氏への訓告がゆるされるなら学問に対する真摯に向き合う人間が教授の中で締め出され、学長と権力の意志のみを尊重する輩たちが沈黙し、さらに被害は広がることとなるだろう。
それは大学だけではなく、私たちの日常生活で、異質を排除する、言論が封殺される風景でもあるのだから。
【“早川由紀夫氏への大学の処分が意味するもの”の続きを読む】
あれから・・・
日常や形式、社会的通念や理念、世界。
それらが皮膜のようにめくれ上がり、隠されていたものすべてが溶けだしてしまったような日だったように思う。
それは地域や職場であれ、仲間や肉親であれ、誰もが経験してしまうことで、
何も自分だけが特殊ではないと知ったのは津波の被害や原発事故の深刻さを受け止める過程でだったのだが。
起こるはずのない非日常によって、
こよなく愛し、先ほどまで続いていた生活が一瞬にして奪われる。
目の前の社会という皮膜がめくれあがり、溶けだし、濁流の中を流され、飲み込まれてしまったような感覚。
いや、それだけではなく、少なくとも生存しているはずの私の中の何ものかが失われたような、
クソ寒く恐ろしい瞬間を味わったと言ったら大げさだろうか。
福島第一原発で発生した爆発の直後のことだった。
当時、私は生まれたばかりの4か月に満たない乳児と3歳になろうとしている娘たちを守ること、
一刻も早く事故中心地の半径1000キロ程度離れた場所に避難させなければならない!
という苦渋の選択とパニックに陥っていた。パニックはやがてカミサンにも伝染していくのだが。
原発による過酷事故が発生した際には真っ先に避難すべきである、ということを知ったのはチェルノブイリ事故でだった。急性放射線障害によって死亡した人々も発生する。そうでなくとも、700キロ先の地域でも大量の放射性物質が降り注ぎ犠牲者が発生したこと。チリよりも小さい物質を吸い込めば抵抗力のない乳幼児、子どもたちから数年後にとんでもない事態となることを何としても防ぎたい、という一心だった。
福島第一原発で一号機で水素爆発が発生し、三号機で核爆発*)が、続いて四号、二号と爆発が発生した直後、チェルノブイリ事故の避難地域の数十倍に相当する放射性物質が風下である首都圏に降り注いだこと、これらを考えれば当然避難したことは「正しかった」と言えるものだ。
東電や政府の無策を嘆くことも「正しかった」と言えるものだ。
だけど何かが違う。何かが違うという表現は、紋切り型のスローガンを並べて政府や東電を批判することとは別の次元にある問題なんだけれども、何かが気になる。
考えてみれば、少なくとも核や原発の脅威について自分から調べ、かなりの本を読んだり、講演会を聞きに行ったりデモに行ったりもしたのは、12年前の東海村JCO臨界事故をきっかけだった。
だけども結局原発を止めることはできなかった。
原発を止めるどころか、地震と原発の過酷事故にうろたえ、他の子どもたちを目の前にしつつもわが子を守ることで精一杯だったということ。
結局、自分の正当性と自己防衛ばっかりで綺麗事を言っていたものの、危険や札束で地域が賛成反対に分断させてきた事も全部、東京で電力と「豊かさ」を消費してきたことが私のすべてのような気がしていたこと。
そこには東電や政府だけではなく、私自身も原発を止められなかった責任があるのだと。
そればかりか「正しかった」ことだけを書き連ね、生きようとする私自身の原罪とでも言うべきなのか?
あれから9か月が経過した。
私の中ではそのことに、未だに何も結論らしいものは見つからないのです。
「知る」といいうことは何も知らないということを知ることだというお決まりのセリフに近いのですが、
それがいまやっと始まったような感じなのです。
あなたとわたしとをつなぐ眼差し、息遣い、触れ合いと声とが交わった時にわかること、なのかもしれません。
大槌町にボランティアに行った時、ガレキとなった街を歩いていると前から自転車を漕いだ初老の方がやってきた。 ただ前を見ているだけで、その目は何も見ていない目だった。
津波で何もかも流され行方不明の家族の安否を思い疲れ切った表情。
そこに横たわる暴力のような街の風景を通り過ぎようとする私を引き留めて離さない表情だった。
暴力と絶望の中で晒されているこの初老の方には、明日を生きるどころか一刻の生さえも拒絶しているような気がした。
おかしなことにその初老の方の生さえも拒絶している眼差しが私の中では焼きついてしまって時に思い出す。
不思議と最近はその眼差しが優しい眼差しとなって
「死にたいのなら死ね。しかし生ある限り生きろ!」と囁いてくれているように思えてくるのです。
「正義」という名の原罪を背負いながら。
*)三号機の爆発を「核爆発」という表現としてあえて使用させてもらいます。最初見た時の映像で私が感じたことでもあったのですが、インターネットを通じてニュースや記事を読み進むうちに、それは確信に変わりました。
『福島原発3号機“核爆発”を起こした!専門家が断言』や
中性子線が文科省脇で発生していることや東京都在住の方の爪からウランが検出されたことを伝えるサイト nueq lab
プルトニウムが首都圏全域に飛び散っていた 米エネルギー省国家核安全保障局(NNSA)のデータから判明
命日に考えたこと
外気の寒さが床の上に一枚敷いた毛布で眠ろうとする私にチリチリと伝わってくる。
この床の間は、昨日上司と職場復帰について話した後に泊まらせ頂いた一室だった。
上司は終の棲家であるマンションから奥さんを置いて、単身工場の近くにアパートを借りて
ほぼそこで暮らしている。
「人間やめましたぁ〜」
昨日、私の職場復帰について話をする席で、上司Sさんは心地良くなってくるに従って表情が同じ釜の飯を食べた頃の顔に戻り、ポツリと言ったのだった。
そのセリフが気になって泊まらせていただいたのだ。
その言葉は、病気休職をしている私を「労働貴族だ!」と言い切った時の表情とはウラハラな、
職場で培ってきた仲間から離れてひとり企業戦士として工場の責任者を任された人間が、
自分の現状を吐露した瞬間だった。
工場は昼夜関係なく稼働している。
その工場の業者の手配やその他を任されたためにそれこそ昼夜関係なく働く。
アパートの入口にはゴルフバックが、炊事場は整髪剤と鏡や櫛などが占拠されている。
皿の洗われていないものが流しに数枚。
会社の人間は、誰か気にかけてきたことがあるのだろうか。
その痕跡さえもない。
キッチンと6畳程の部屋に簡易ベットと冷蔵庫があるだけ。
ここでチビリとビールを飲みながら仮眠して見る夢はどんなだろうか?
タマネギとかウインナーがあったので、流しを片づけパスタを作る。
タマネギを剥いているうちに、何故か涙がとめどなくあふれ出てくる。
「明日も早い」と言うので会話も余りせず、さっさと眠ろうとする。
Sさんはベッド。
「床は寒いよ」と言って交代しようとするのだが、Sさんは明日仕事なので断固私は「結構です」と。
半折に毛布一枚敷いて、折り返した部分で上掛けする。
上着をその上にかぶらせてもらって上司とは違う方向を向いて眠った。
違う方向に横になるのは顔を見られないためだった。
眠ってもまたとめどなく涙があふれ出てくるのだ。
朝早かったので静かに去ろうとするとSさんも起きていたようだ。
Sさんも眠れていなかったのだろうか?
「ありがとうございました。また、会いましょう。」
「ああまたね。外雨降ってるだろう。傘持ってけ」
渡された傘をさしてどぶ川が流れる桜並木を歩く。
いい路だ。
春にはここも綺麗なんだろうなぁとしばし感傷に耽ってしまう。
Sさんが「人間やめましたぁ〜」と言うそのセリフには、
「成功」とは程遠い現実が横たわっていた。
家族を置いて、「幸せ」の代名詞のようなマンションから離れて
会社のために睡眠導入剤を飲み、あのアパートでたったひとりで命を削っている。
屈託のない笑顔が無くなり、もっと別な場所で使うべきはずの優秀な頭脳が消尽している
この場所で。
歩く程に、この雨がSさんの涙雨のような気がしてきたと思ったら、
周りに人がいるにも関わらず急に嗚咽してしまった。
今日で兄が亡くなってもう8年になった。
建築現場の監督を任されて朝は5時に出勤し、
夜中の午前をまわる位に牛丼のお弁当を持って帰ってきた。
サービス残業、休みも返上休日出勤当たり前。
大好きな釣りや登山も何時しかしなくなっていた。
笑顔もなくなり、家に帰ればビールを飲んで寝るだけの生活。
そんな会社の方針に従ってやってきて職場で倒れた。
脳に腫瘍が見つかったのだった。
闘病生活を家族と共に5年過ごし、
12月1日に前倒しのクリスマスを行い、4日に帰らぬ人となった。
兄は皆から慕われた。
だから余計に親族や友人たちも深い悲しみに包まれていた。
兄のような生き方を私は出逢えたから今を選択する私もいるんだと思う。
同時に兄のように会社の方針に従って悔いの残るような生き方は選択できない。
人間が豊かに生活し、生きているためには、異質を認めあえる人間関係であり
職場を越えて全面的に生を拡充させるべきなんだ。
なぜかSさんの部屋に案内してもらった事が、
兄の8年後の命日の前日の出来事とは無関係だとは思えなかった。
Sさんを、職場の仲間を同じ目にあわせては絶対あってはならないのだと。
かつては溌剌としていた上司であるSさんの命が守られる職場を作りたい。
職場の同僚が不規則勤務の中で身体の不調を訴えている。
病気休職をしたくてもできないという雰囲気の中で、
自分は「まだまだ働ける」と病気であることを隠し、会社もそれを追認する。
まるで病気であることが罪でもあるかのように・・・。
今日は昨日の雨とはうって変わって快晴だった。
兄の墓前で自分がいま生きていること、
名も無く倒れた多くの人たちの犠牲の上に生かされていること、
仲間に支えられていることに感謝した。
同時にもっともっとやるべきことも発見した。
ささやかながらそんなことを兄の墓前に菊の香りと共に手向けることが出来たのです。






